日赤発祥の地・熊本 〜連載企画〜

連載39 「日赤発祥の地」について

ソルフェリーノの戦いや、日本で有名な関ヶ原の戦いなどは、たった一日の戦いで勝敗が付いていた。しかし、田原坂の戦い及びその周辺地域での戦いでは、両軍とも約2カ月もの間、昼夜を問わず戦闘が続けられ、多くの負傷者を出し多くの武士や兵士たちが死んでいった。いかに激しい戦争だったかが分かる。その中で、負傷兵の救済に苦しみながら日本赤十字社の前身である「博愛社」が誕生した。単に、敵味方の区別なく治療を行っただけではない。日本人は以前から敵に塩を送り自然と道徳的に戦っていた。特筆すべきことは、西南戦争の最中に、欧州の赤十字に習い、政府からの許可を得て、篤志者による日本式の人道博愛精神による救護団体が組織され、標章を掲げて活動したことだ。そしてそれが現在まで続いている。

ここで、「日赤発祥の地」について少し考えてみたい。これまで「日赤発祥の地」を語るのに、「日本において最初に敵味方の区別なく救護したのは、何時、何処で、誰なのか。博愛社が最初に救護活動を行ったのは何時で、何処なのか。」などと、何かと記録や物的証拠が揃わないと、「日赤発祥の地」とは言えないような風潮があった。この連載でも少ない物的証拠や記録を探し、それに地元での伝承を付けくわえて、「日赤発祥の地」を物語ってきた。しかし、これは考古学者や物理学者が証明しても証明しきれない事象によく似ている。言い伝えや仮説を学術的に証明することは大変重要なことであるが、よくよく考えてみると、「日赤発祥の地」はもっと素直で、もっと単純なところにその原点があることに気づく。

赤十字発祥のきっかけとなった「ソルフェリーノの戦い」の戦場であった「ソルフリーノ及びその周辺地域」は、何と言っても、世界赤十字の発祥の地であり、その象徴は「ソルフェリーノの丘」である。そしてその記録としては、アンリー・デュナンが著した「ソルフェリーノの思い出」がある。戦争の後、自分の体験をもとにいろいろな聞き取り調査を行い、3年もの歳月をかけて出版されたこの本は、多くの人々に感動を与え、赤十字が誕生する礎となった。 これを素直に日本に当てはめれば、「日赤発祥の地」を簡単に説明することができる。イタリア統一戦争のソルフェリーノの戦いは、西南戦争でいうと、一番の激戦であった田原坂の戦いに相当する。田原坂の戦いとは、田原坂だけでなくその周辺の戦いも含めて言うこともある。そしてそこでは懸命な救護活動が行われていた。つまり、「田原坂及びその周辺地域」は、赤十字発祥の地である「ソルフリーノ及びその周辺地域」とまったく同じような戦地であり、「田原坂」は「ソルフェリーノの丘」そのものである。もうひとつ言うなら、「博愛社設立請願書」は「ソルフェリーノの思い出」と同じ訴えがなされ、「博愛社社則」は「ジュネーブ条約」に相当する。この「博愛社設立請願書」は佐野常民の直筆ではないが、田原坂の悲惨な状況が説明され、佐野常民が欧州で学んだアンリー・デュナンの人道博愛の念と同じようなことが書かれている。そして、西南戦争の最中、この請願書に書かれた田原坂からの訴えが人々を感動させ、日赤が誕生する礎となった。つまり、日赤は西南戦争から生まれ、その戦場であった「田原坂及びその周辺地域」は、「日赤発祥の地」と言えるのである。また、有栖川総督が宿営し3カ月間滞在しておられた「熊本洋学校教師館ジェーンズ邸」も、日赤発祥の舞台となった貴重な建物である。

最後のおさらいとして、明治10年4月6日付けで岩倉右大臣あてに提出された「博愛社設立請願書」と「博愛社社則」の原文を紹介しておく。時にして明治10年4月6日は、田原坂が陥落したものの、その周辺地域である山鹿、植木、木留方面では、薩軍の必死の抵抗が続き、死傷者が増え続け、熊本城の安否さえ危ぶまれている最中であった。佐野常民が大給恒と共に、その様子を伝え救護の必要性を訴えたこの請願書は、西郷従道の内申を受け、残念ながら4月23日付けで却下されてしまった。しかし、佐野常民が熊本を訪れ、直訴のために提出した征討総督二品親王有栖川熾仁殿あての博愛社設立請願書は、殿下のご英断により5月3日付けで允許が与えられた。殿下はすぐさま許可した旨を太政官にも報告し、現地での博愛社の設立と活動が可能となった。この二つの請願書であるが、日付と宛先以外は、一字一句違わず全く同じ内容のものであった。

◎「博愛社設立請願書」
此度鹿児島縣暴徒御征討之儀ハ寛ニ容易ナラサル事件ニテ開戰已來既ニ四旬ヲ過キ攻撃日夜ヲ分タス官兵ノ死傷頗ル夥多ナル趣戰地ノ形勢逐次傳聞致シ候處悲惨ノ状誠ニ傍観スルニ忍ヒサル次第ニ候所死者ハ深ク憐ムヘシト雖トモ生ニ復スルノ法ナシ唯傷者ハ痛苦萬状生死ノ間ニ出没スルヲ以テ百法救濟ノ道ヲ盡スコト必要ト被存候固リ政府ニ於テハ看護醫治ノ方法整備スト雖トモ連日ノ激戰創痍ノ者漸ク增シ自然御行届相成兼候場合モ可有之ト料察致候
聖上至仁大二宸襟ヲ惱マシ玉ヒ屢々慰問ノ使ヲ差セラレ
皇后宮亦厚ク賜フ所アリタル由臣子タル者感泣ノ外ナク候就テハ私共此際ニ臨ミ數國恩ニ浴シ候萬分ノ一ヲ報シ候爲メ不才ヲ顧ミス一社ヲ結ヒテ博愛社ト名ケ廣ク天下ニ告ケテ有志者、協參ヲ乞ヒ社員ヲ戰地ニ差シ海陸軍醫長官ノ指揮ヲ奉シテ官兵ノ傷者ヲ救濟致度志願ニ有之候且又暴徒ノ死傷ハ官兵ニ倍スルノミナラス救護ノ方法モ不相整ハ言ヲ俟タス往々傷者ヲ山野ニ委シ雨露ニ暴シテ収ムル能ハサル哉ノ由此輩ノ如キ大義を誤リ王師ニ敵スト雖トモ皇國ノ人民タリ皇家ノ赤子タリ負傷座シテ死ヲ待ツモノモ捨テ顧ミサルハ人情ノ忍ヒサル所ニ附是亦収養救治致シ度御許可有之候ハバ朝廷寛仁ノ御注意内外ニ赫著スルノミナラス彼徒ヲ感化スルノ一端トモ可相成候歐米文明ノ國ハ戰争アル毎ニ自國人ハ勿論他邦ヨリモ或ハ金ヲ醸シ或ハ物ヲ贈リ若クハ人ヲ差シ彼此ノ別ナク救濟爲スコト甚タ勸ムルノ慣習ニテ其例ハ枚擧ニ暇ラス候本件ノ儀ハ一日ノ遅速モ幾多ノ人命ニ千シ即決急施ヲ要シ候附何卒丹誠ノ微意御明察至急御指令被下度仍面別紙社則一通相添此段奉願候也

明治十年四月六日
議官 佐野常民
議官 大給 恒  
岩倉右大臣 殿

◎「博愛社々則」

第一条 本社ノ目的ハ戦場ノ創者ヲ救フニ在リ、一切ノ戦事ハ曾テ之ニ干セス
第二条 本社ノ資本金ハ社員ノ出金ト有志者ノ寄附金トヨリ成ル
第三条 本社使用スル所ノ醫員、看護人等ハ衣上ニ特別ノ標章ヲ著シ、以テ遠方ヨリ、識別スルニ便ス
第四条 敵人の傷者ト雖モ救ヒ得ヘキ者ハコレヲ収ムヘシ
第五条 官府ノ法則ニ謹遵スルハ勿論進退共ニ海陸軍醫長官ノ指揮ヲ奉スヘシ

5月8日横浜毎日新聞には、博愛社設立を許可した内容の有栖川総督の電報が紹介され、同日の軍団病院日記にも「佐野議官常民以下数名博愛社ヲ創設シ官ト賊トヲ論セス博ク人民戦闘ニ傷ツク者ヲ治療セント請ヒ総督ノ許可ヲ得タリ」と記載された。5月15日の軍団病院日記抄には、「博愛社佐野議官撒糸若干包帯木綿六反ヲ熊本病院ニ寄贈ス」とある。5月27日、博愛社は「赤の丸一」を標章と定め、熊本軍団病院に救護員を派遣し本格的な救護活動を開始した。6月2日付けで佐野常民は熊本県権令に親書を渡し、博愛社の設立と活動を説明し協力を求めた。6月22日「朝野新聞」に設立請願書と社則が掲載され、以後寄付金が寄せられるようになった。田原坂の戦いは既に終わっていたが、新聞を読んだ人々は田原坂の悲惨な状況に想いを寄せたに違いない。そして、6月23日付けで、大給恒は太政官へ社業開始を上申し、麹町区富士見町四丁目の桜井忠興邸を博愛社仮事務所と定めた。これらの既成事実が正式な許可を後押しする形となり、8月1日付けで4月23日付の却下が取り消され、4月6日付けの博愛社設立請願書が正式に許可された。8月7日には皇室の思し召しにより、宮内省から1000円が博愛社の活動に下賜された。8月15日社員総代桜井忠興候は寄付金等を携え九州へ向かった。

「日本赤十字社社史稿」第1巻には、「熊本ニ於テ業務に従事シタル本社救護員ハ其總數九名ニシテ、内醫員一名醫員助四名庶務掛兼看護長一名看護手三名ナリ。其勤務個所ハ熊本軍團病院ノ外、人吉、八代、阿彌陀寺及水俣ノ四個所ニシテ、救護施行ノ日數ハ五月二十七日ヨリ十月三十一二ニ至ル百五十八日ナリ。其救護シタル患者の數ハ救療百餘名、護送四十名ノ外調査スル所ナシ。」とある。博愛社は全体では1,429名の患者を収容したが、佐野常民の本意である野戦病院的な救護活動が実践できたのは、熊本軍團病院の外、人吉、八代、阿彌陀寺及び水俣の4個所であったと思われる。この熊本軍團病院は今のところ特定できないが、当初は、やはり玉東町木葉の徳成寺、正念寺などであったと伝えられている。人吉、八代、阿彌陀寺及び水俣方面での活動については、今後の調査に期待したい。

最後に、田原坂の戦いの時に仮県庁が置かれ兵站基地になっていた玉名市(高瀬)に残る「著者不明の手書きの文書」を紹介する。差し出された名刺は現存しない。また、訪れた大給恒は、代理又は佐野常民の書記官だったのかもしれない。高瀬の承久寺など7箇所のお寺では、軍団病院として懸命な治療が行われていた。お寺の床板は血で染まり、夜になると「おっかー、おっかさーん」と、うめき声と泣き声が聞こえていたそうだ。

◎「著者不明の手書きの文書」

『時は明治十年田原坂激戦の最中の雨の日の夕方の事である。この学校の前の校舎即ち時の白川県庁○○○○の庁舎の玄関に蓑笠を被た二人の気高い風の紳士が来て、「県令は居るか」と言って名刺を出したのが、後の子爵勲章局総裁大給恒又後の子爵医学博士佐野常民日本赤十字社長である。これを取次いだのが当時十八歳の少年、後の弥富村長塚本平次翁であります。その村長が今から四十七年前私への直話をしてくれたのは「この両爵は明治天皇の勅令を奉じて田原坂の戦場の視察をなし、其の帰りがけの事でした。結局県令との相談も出来、両氏が東京に帰り間もなく出来たのが博愛の社であり、万国赤十字社の勧めにより、日本赤十字社ができたのであります。」
右は玉名○○○様に昭和三十四年玉名市名誉市民に○○た祝賀会の席で、玉名市秋丸光蓮寺住職多田澄圓氏の祝辞の一節であります。 塚本平次 当時役場の小使い 死亡』

(支部 梶山哲男)

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