日赤発祥の地・熊本 〜連載企画〜

連載33 博愛社初代総長「小松宮彰仁親王殿下」と「佐野常民」

ここで幻灯機の説明文の内容でひとつ気になることがあるので記載しておく。この幻灯機は、明治24年ごろ赤十字の社員(会員)獲得に偉大な働きをした「赤十字幻灯」のことである。制作した石黒忠悳は当時陸軍軍医監であったが、本社常議員として常に社業の発展に意を注ぎ、ついに明治23年の末、「赤十字幻灯」を考え、自ら案を練り、文を草し、画工に図案を描かせて30枚近くのスライドにまとめ、これを社員募集に役立てるよう本社に寄付した。記録によると「幻灯は、すべての公衆の目に反映し、人生天賦の真情を発揮するの導火なり」とある。この赤十字幻灯が社員増募に挙げた功績は大きく、石黒忠悳自身も夫人を助手として昭憲皇太后(当時皇后)と大正天皇(当時皇太子)の御前で実演し、おほめのことばをいただいたという。この幻灯は日本国内ばかりでなく、中国、イギリスにまで進出し、日本赤十字社を知る上に好適なものであると大好評であったといわれている。

 

 

この石黒忠悳は、学位は医学博士で、1871年松本順の勧めで兵部省に入り軍医となり、佐賀の乱、西南戦争に従軍している。1890年、陸軍軍医総監に昇進するとともに、陸軍軍医の人事権をにぎるトップの陸軍省医務局長(陸軍軍医・序列第一位)に就任した。その後、草創期の軍医制度を確立した。しかし、日清戦争での脚気の治療で責任を取り辞職したと云われている。後に貴族院勅選議員、日本赤十字社の第4代社長などを務めた。

 

 

西南戦争に従軍した当時、戦傷者が収容されている大阪臨時病院の院長であった石黒は、明治10年3月31日、天皇陛下から、皇太后陛下・皇后陛下が宮中にて御手づから作った綿撒絲を、官賊の別なく配布するように同病院で指示されている。その石黒忠悳は、幻灯機の説明で、「小松宮彰仁親王殿下、遠く九州に赴きて官賊の別なく傷者を救援せんことを願い、有栖川総督殿下の許可を得て、遂に業を創めたり。これを博愛社と名く。此時此社の殊に功績を著せしは、賊の傷者又は捕虜の病者を救療せしこと是なり…」と言っているのだ。昭憲皇太后(当時皇后)に説明しているのだから、間違いはないと思わなければならない。佐野常民や大給恒ではなかったのか?。

 

 

これが事実なら大変気になるところである。小松宮彰仁親王殿下(当時東伏見宮嘉彰親王殿下)は博愛社の初代総長である。そして、明治11年から明治19年まで博愛社の総長をお務めになった。この説明では佐野常民ではなく同殿下が許可を得て創業したように書いてあるのだ。同殿下は、確かに明治維新にあたっては軍事総裁に任じられ、戊辰戦争では奥羽征討総督として官軍の指揮を執り、敵兵である会津藩の負傷者の治療に協力している。西南戦争にも旅団長として出征し、薩摩藩の負傷者の治療を望んでいたとしても不思議ではない。 当時の海軍日誌には、東伏見宮嘉彰親王が田原坂の激戦の最中高瀬に滞在するため、海軍の川村純義参軍(総司令官)が宿の手配をしていることが記録されている。高瀬は江戸時代から、米を直接船で大阪に輸送し、また、長崎や外国と密貿易などをしており、田原坂の戦いの頃は、兵站基地としての機能を十分に果たしていた。つまり、川村参軍も高瀬沖を中心に、長崎、八代、久留米、福岡、大阪など、海軍の司令官として航路していたはずである。薩軍の負傷兵も軍艦で搬送したことも予想される。

川村参軍は薩摩藩士で長崎海軍伝習所の第一期生で、佐野常民とも同期生であった。海軍に精通している佐野常民が、川村参軍の協力を得て、東伏見宮嘉彰親王殿下の意(若しくは勅令)で行動し、3月の中旬に高瀬を拠点として田原坂の激戦を視察見聞し、博愛社の設立と活動を模索したとしても不思議ではない。佐野常民は、川村参軍や陸軍の山縣参軍とも、官賊の別なく負傷者を救護するため、高瀬で打合せを行っていたかもしれない。佐野常民本人ではなく、代理人であったとも考えられる。以前紹介したとおり、佐野常民が勅令、若しくは皇室の意向で高瀬にやって来て、戦場や野戦病院を視察し、その後博愛社を設立したという言い伝えとも結びついてくる。NHKの龍馬伝では、グラバーが龍馬に「京都から江戸まで軍艦で半日もあれば行ける」と言っていた。天候さえ良ければ、佐野常民は神戸から長崎や高瀬まで休憩しても2日もあれば来れたはずである。それは、3月中旬のことだったのだろうか。高瀬船着場跡には博愛社設立のため奮闘した佐野常民の足跡が残っているかもしれない。

いずれにしても、日赤誕生の秘話が高瀬(玉名市)に残っていることは、あまり公にはなっていない。「佐野常民は、明治10年3月中旬に高瀬や玉東町を訪れ、戦場や野戦病院を視察し博愛社設立を決意した。そこには、既に皇室から薬剤や包帯等が届けられていた。常民は中央に戻り救護の必要性を訴え、同志を集め政府や皇室に働きかけた。田原坂周辺の惨状は次々に報告され、4月始め、やっとの思いで博愛社設立請願書の提出にこぎつけた。しかし、明治政府から良い返事が得られそうにないため、有栖川総督殿下に博愛社設立の直訴を決意し、再度、4月15日頃、総督本営が置かれた高瀬を訪れた。本陣は高瀬の繁根木八幡宮に置かれていたが、殿下は近くの民家(江副醫院)に宿営していた。佐野常民は高瀬の仮県庁内に博愛社設立の足がかりとして事務所を構えた。同じ建物に仮の裁判所も置かれ、他の元老院議官たちが出入りしていた。ここで熊本県と印刷された罫紙を使って、直訴用の博愛社設立請願書と博愛社社則を書いたのか?…そして、これは皇室や小松宮彰仁親王殿下の意向でもあった。本営は、戦争の真っ最中であり、戦闘を続けながら、ついに、4月17日熊本城への入城を果たし、有栖川総督殿下とはすれ違いとなってしまった。その後、4月23日付けで、明治政府から博愛社設立不許可の指令が正式に伝えられた。佐野常民は4月29日一旦佐賀(長崎)に戻り、情報を集めながら機会を見計らい、5月1日に熊本城を訪れ直訴した。そしてついに内諾を得たのである。民間の救護団体による薩摩兵の救済が公に認められた瞬間であった。その時、戦場は御船から人吉方面へと移動中であった。一方で、高瀬や田原坂周辺での戦傷病者の治療は、民家や軍団病院などで、まだ懸命に続けられており、特に薩摩兵の救出には時間を要していた…」。否定するものは今のところない。今に残る碑文や資料と貴重な言い伝えを尊重し、話を繋げていけば、そういうことになるのだ。 いずれにしても、博愛社初代総長「小松宮彰仁親王殿下」と「佐野常民」の接点を考えるなら、高瀬(玉名市)は大変気になる地域である。今後の歴史家の調査に期待したいところである。

(支部 梶山哲男)

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