日赤発祥の地・熊本 〜連載企画〜

連載31 西南戦争終焉までの博愛社の救護活動

佐野常民は総督本営の許可を得て、8月以降、宮崎、鹿児島方面のもっとも悲惨な場所に包帯所または仮病院等を設置し、戦傷病に苦しむ人々のために、敵味方の別なく救護活動を展開する計画をたてていた。しかし、戦局の急転にともない、総督本営は延岡等の軍団病院を長崎に移転。博愛社も計画を断念し、軍医部の計らいで、長崎県軍団病院第11病棟を博愛社救護員のみで担当することになった。その知らせを聞いた佐野常民は、傷病者に救助の及ばない戦地での救護でないこと、技術や資材が未熟であるとの理由で、博愛社の将来を深く憂慮していた。これまで必死に薩摩軍の負傷兵を救護していた博愛社であったが、宮崎、鹿児島での救済活動が不十分であったのも納得できる話である。

明治10年9月29日、本部の桜井忠興等は再び来熊し、冨岡権令より支局の事務を引き継ぎ、長崎に赴いたが、その時をもって熊本支局は閉鎖され、その後の熊本支局の事務は長崎支局で取り扱われた。熊本支局の事務の内容について、「日本赤十字社社史稿巻1巻」に次の記録がある。

「五月ヨリ九月ニ至リ 熊本支局ガ収納セル金員ハ 寄附金百圓 借入金参百圓 東京本部ノ回送金七百七十五圓 總計千百七十五圓ニシテ 其ノ支出セル救護費ハ 五百參圓四十四銭六厘ナリ」

佐野常民に送られたコレラ患者救援に対する礼状鹿児島支局は明治10年10月、大阪支局は明治16年2月に閉鎖された。また長崎支局は明治11年12月に一度閉鎖されたが、長崎と大阪を結ぶ海上交通の要地でもあり、翌12年に再開され、明治20年に社名を日本赤十字社に改称するまで存続した。

また、明治10年10月水俣地方にコレラが大流行し各地にまん延する兆候があった。博愛社は冨岡熊本県権令の要請に応じ、軍医部長の許可を得て、医員助竹崎季薫を水俣の避病院に派遣し、コレラに苦しむ多くの患者の救護にあたらせた。竹崎医助は約40日間、水俣に滞在し、コレラの治療に当たったが、11月下旬にやっと根絶させることができた。権令は佐野常民に礼状を出しているが、これは日本赤十字社災害救護の始まりとも言える活動であった。

熊本軍団病院における博愛社の救護活動は、10月31日をもって長崎軍団病院とともに活動を終結している。日本赤十字社社史稿(巻1巻)には熊本軍団病院の状況を次のように記載している。 

「熊本ニ於テ業務に従事シタル本社救護員ハ其總數九名ニシテ、内醫員一名醫員助四名庶務掛兼看護長一名看護手三名ナリ。其勤務個所ハ熊本軍團病院ノ外、人吉、八代、阿彌陀寺及水俣ノ四個所ニシテ、救護施行ノ日數ハ五月二十七日ヨリ十月三十一日ニ至ル百五十八日ナリ。其救護シタル患者の數ハ救療百餘名、護送四十名ノ外調査スル所ナシ」。

西南戦争における博愛社の救護活動は、明治10年5月27日から10月31日まで続けられたが、全体で、その間に救護した患者は1400余人、従事した救護員延べ199人、なお救護費総額は7,040円であった。
創設して日も浅く、救護活動としては十分といえなかったが、博愛社が民間の救護団体として初めて我が国に誕生し、博愛の理念に基づき敵味方の区別なく救護活動を展開し、日本中に道徳的行動の模範や近代化を示したことは、世人の心に強い感動を与えた。

(支部 梶山哲男)

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