最大の激戦が繰り広げられた田原坂の戦いで、戦傷者の救護の面から考えると、最も重要な役割を担ったのは官軍病院「正念寺」である。このお寺は国道208号線沿いにあり、玉東町木葉の役場のすぐ東側で、田原坂の入り口の豊岡眼鏡橋に最も近い場所に位置している。田原坂へ進軍した兵が負傷して運ばれるには最適の場所である。今でも山門には生々しい弾痕が残り、お寺の境内には、博愛社の標章である「赤の丸一」を付けた博愛社発祥の地の石碑がある。
田原坂戦の官軍の死傷者は約5,000名で、死亡は約1,700名そのうち約450名は重傷を負い病院で亡くなっている。この膨大な数からして田原坂に一番近い正念寺と以前に紹介した徳成寺には患者が溢れ、夜を徹して治療を行い、兵站基地である高瀬等に搬送したことが予想できる。実際は正念寺の本堂だけでは戦傷兵を収容できず、お寺の裏近くに救護所を設け臨時的に治療に当たっている。このお寺が官軍病院として活動したのは明治10年3月3日から4月23日までの50日余となっているが、4月20日からの健軍・保田窪の戦いや御船の戦いが行われており、負傷者はまだ正念寺を経由して高瀬、久留米、福岡、長崎、大阪へと護送されていた。官軍の管理下ではないとはいえ、しばらくの間継続して町医者による治療が行われたに違いない。
この正念寺は官軍病院として重要な働きをしたが、その後は、博愛社の最初の活動の場としても有名である。それは、佐野常民が博愛社設立の許可を得た後、直ちに長崎で資金と救護員を確保し、医員等4名を雇い熊本に戻り、最初に活動を開始したのがこの正念寺であると言い伝えられているからだ。常民が陸路で故郷佐賀まで往復したなら、幾度となくこのお寺に立ち寄り早く救いの手を差し伸べたいと思いを馳せていたに違いない。博愛社設立が許可された当初、この地域の戦闘は既に終わり、なお激戦の薩摩療養者が多くいて救護所となっていたこのお寺に、博愛社の小川良益医師(佐賀病院四等医兼同所監獄係長、長崎県士族)が派遣されたと伝えられている。
記録では、博愛社の救護活動の具体策について総督本営から正式に許可されたのは明治10年5月27日となっているが、既に横浜毎日新聞には、5月8日に博愛社の創設が総督から許可されたことが報道され、同8日付けの軍団病院日記にも、「官と賊を論ぜず人民戦闘に傷つきものを治療する博愛社創設が許可された」と、記載されている。ここ正念寺における博愛社の最初の活動については、博愛日誌や日赤社史稿などにはその記録はなく、史実として証明できないのが残念であるが、否定する事実もない。正式な本格的な救護活動が人吉、八代、水俣方面で行われる以前から、これまで設置されていた軍団病院で、特に捕虜となっていた薩摩兵等の治療を中心として、手始めに正念寺で活動したかもしれないことは充分に理解できる。
実際には、正念寺の裏に臨時の救護所があったと伝えられていることから、そこが、正真正銘の最初の救護活動の場所であったかもしれない。ただ、立証できないのが残念であるが、博愛精神や赤十字活動を伝えたいという崇高な思いは共通するところである。現在のお寺は、西南戦争や博愛社に関係ある史料が沢山収集してあり、佐野常民記念館をはじめ多くの関係者へ資料の貸し出しを行うなど、博愛社の誕生を今に伝えている。
(支部 梶山哲男)