日赤発祥の地・熊本 〜連載企画〜

連載21 仮県庁跡地の玉名女子高等学校

当時高瀬で現在の玉名市には、元老院議官佐野常民が戦傷者の救護や博愛社の設立について打合せを行ったという秘話が伝えられているが、その場所は、城北で西南戦争中仮県庁が置かれていた旧高瀬藩邸(岩崎原小)跡で、現在は玉名女子高等学校が建っている。この高校はマーチングで全国的に有名な高校であるが、日赤発祥に関係があることから看護科を設置し、看護教育にも力をいれておられ、現在でも青少年赤十字加盟校として活躍されている。

「高瀬藩岩崎原誌」昭和5年12月 続亀友 書 には次のように記してある。博愛社ノ創立四月中旬草軽脚袢ノ出テ立チニテ岩崎原ナル仮県庁ヲ訪ヒ、刺ヲ通ズルモノアリキ、是レナン佐野常民氏ニシテ氏ハ博愛社の創設ニ関シ総督宮殿下ノ御栽下ヲ仰ガントシテ来県シ此ニ始メテ会社ノ事務ヲ開キ、岩崎原小学校ノ一ヲ以テ之ニ充テ仮県庁、仮裁判所ト同一家屋内ニ博愛社事業の端緒ヲ興セリ。之シ実ニ現今ニ於ケル日本赤十字ノ前身ニシテ今ヤ万国的行動ヲ一ニセル日本赤十字社濫觴ハ我岩崎原ノ地ヲ以テセリトハ特筆スベキノ事項ナリトス

なんと、常民が来訪し会社の事務を開き、仮県庁、裁判所と同一の家屋で博愛社事業の端を興したとしている。これが事実としたら、神戸からの移動に5日間かかるとするなら、常民が仮県庁に訪れたのは、征討本営が熊本城に入城した明治10年4月17日か18日と考えられる。有栖川宮とはちょうど入れ違いだったのだろうか。

玉名女子高等学校ホームページでは校内にある記念碑の建立について以下のように説明している。「明治十年西南の役に際し、有栖川宮熾仁親王は征討総督となって軍を進め、本陣を高瀬に置かれた。最大の激戦地となった田原坂の戦いにおける両軍の死傷者はおびただしく、明治天皇は戦線視察の為に佐野常民(時の元老院議官、後の日本赤十字社長、子爵)を派遣したが、すでに東京では西南戦役死傷者多数の報に接して大給恒(幕末の陸軍総裁、時の元老院議官、後の子爵、賞勲局副総裁)が博愛社(後の赤十字社)創設の運動中であった。

田原坂の惨状視察を終えた佐野は、「同じ日本人同士である。敵味方の区別なく救援の手を差し伸べねばならぬ」と、高瀬において有栖川宮に博愛社設立を出願し、参軍山県有朋、参謀小沢武雄の協力により其の許可を得て、救護班の活動を開始した。このようにして佐野の帰京後、それを待ち受けていた大給は、有栖川征討総督官許可を大致官に上申し、やがて博愛社の創立を見るに至ったのである。佐野が高瀬を訪れた時、県庁は西南の戦渦を避けるために高瀬に移転していたのである。その県庁役所こそ、その後本校の校舎となる木造瓦葺二階建一棟である。四間の玄関がしつらえてあった。そこは現在本校体育館のあるところで、佐野が赤十字社の必要を痛感して創設の熟議を凝らした場所である。

このように因縁深き土地として昭和五十一年日本赤十字創設百周年にあたり、日赤玉名地区長橋本二郎(玉名市長)日赤熊本県支部現地救護班長吉田春雄(吉田外科医院長)によって、昔、木標が立てられていた場所に記念石碑が建立されたものである。」

(支部 梶山哲男)

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