日赤発祥の地・熊本 〜連載企画〜

連載20 征討本営と仮県庁跡

 高瀬の戦いの主な戦闘は2月25日から3日間である。その前の2月22日植木町向井坂で官薩軍が交戦し、初めての本格的夜戦の中で十四連隊旗が奪われるという軍旗事件が起きている。2月23日には木葉で第三大隊長吉松少佐戦死、乃木少佐は落馬し高瀬へ退却している。24日には薩摩軍に協力する池辺吉十郎率いる熊本隊の一部が早朝高瀬に乱入、武器弾薬・食糧を奪って引き揚げている。25日から戦況は一進一退を続けながら薩軍優位に進み、27日乃木少佐負傷、官軍は繁根木に放火、隆盛の末弟西郷小兵衛は戦死。初めての平野部での天下分け目の戦いとなったが、午後には薩軍の攻撃もおさまり官軍優位となった。  

玉名市には西郷小兵衛の戦没の石碑がある。薩軍は、当時銃弾に倒れた小兵衛を担ぎだすために橋本鶴松家から雨戸を一枚貰い受け、それに乗せて高瀬川を渡ったが、途中で息絶えた。戦後、小兵衛夫人松子から橋本家に寄せられた丁寧な礼状は6通にも及んでいる。また、「肥後の西郷」と云われていた池辺吉十郎の墓も玉名市(旧・横島町)の山の上展望公園にある。彼は戦後長崎で死刑となったが、熊本市京町出身で、細川家の藩校・時習館に入り抜群の成績を残し、明治4年に横島町に移住。池辺塾を開き後進の指導をしていた。西南戦争では熊本隊を結成し薩軍に協力した人物だ。熊本県立済々黌高等学校の創立者であり元衆議院議員の佐々友房も熊本隊に入り最後まで戦っていたことは驚きである。

高瀬大戦の後3月3日には田原坂の戦いが始まるが、3月6日の軍団病院日記抄には、 「田原坂に近い高瀬に激戦の負傷者2百人余が運ばれ、数ヵ所の寺院に収容。負傷者は小包帯所から大包帯所を経て病院へ送られ、さらに長崎・福岡の軍団病院、大阪の鎮台病院へと移送された。」と記載されている。高瀬は兵站基地に変化していたのである。ちなみに征討総督有栖川宮熾仁親王の高瀬本営は3月23日から4月17日までで、岩崎原小学校に仮県庁が置かれたのは3月25日から4月18日までであるが、ここで、日赤発祥の地にまつわる貴重な記事を紹介する。 

「玉名郡誌」(293~294ページ)には征討本営と仮県庁の記事が次のように記されている

 ○鳳樹樓と熊本假縣廳
高瀬戦闘後有栖川宮熾仁親王は征討都督として本營を高瀬に進め高瀬繁根木町江副醫院の階上に暫く投宿遊ばされたのである。鳳樹樓とは都督宮の命名されたものであつた当時居間に掲げられたるものといふ遍額が滑石村藤井家に今尚保存せられてある。(口繪参照)

佐野常民等が高瀬に來つて博愛社創設の許可を得たのも亦此の時である。彌富村瞢學校(岩崎原連の共有)は此の時熊本假縣廳を設けて事務を取った頃であったが、博愛社の事務も此で始めて取つたということである。

(支部 梶山哲男)

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