日赤発祥の地・熊本 〜連載企画〜

連載15 博愛社設立と皇室の関わり

照憲皇太后軍団病院日記抄には、「3月6日 田原坂に近い高瀬に激戦の負傷者2百人余が運ばれ、数ヵ所の寺院に収容。負傷者は小包帯所から大包帯所を経て病院へ送られ、さらに長崎・福岡の軍団病院、大阪の鎮台病院へと移送された。」と記されている。おびただしい数の戦傷病者が次々と治療を受けながら大阪まで搬送されていたのは驚きである。明治天皇は、3月31日大阪鎮台病院負傷者を見舞われ、皇太后と皇后は手製の綿撒糸や見舞品を送り看護に尽くすよういわれた。太政大臣三条実美と右大臣岩倉具視は皇室の恩恵に感激して、クリミヤ戦争時のロシア皇后とイギリスのナイチンゲールの救護活動の事例をあげ、華族たちに檄文を送った。と、新聞にも掲載されている。

幻灯機の説明文には次のように記されている。

『明治10年西南の役に官軍の傷者12,298名、死者2,008名、大阪臨時病院にて治療せしもの8,569名。同年3月31日、天皇陛下は内閣顧問従三位木戸孝允を随え西京の行在所より大阪臨時病院に行幸ありて、一々此傷者の病床に臨ませ給う。陛下は傷者が病床の上に正座して敬礼するを御覧ありて、畏くも特に病院長陸軍一等軍正石黒忠悳(いしぐろただのり)を近く召され、病者朕が臨むを見て事更に正座平伏する者あり、若し敬礼するが為に、その疼痛を増ことあらば、朕が欲せざる所なり、汝よく患者をして此意を体せしめよとのたまう。病院長、畏まりて、此仁勅を傷者に伝えければ、傷者は更なり。供奉の諸員ともに、皆斯くまで聖慮を注がせ給う天恩の厚さに感泣せざるものなかりき。又、此時に於て、皇太后陛下、皇后陛下は、傷者の苦痛を思し召され、宮中にて、御手づから綿撒絲を作らせ給い、之を大阪臨時病院に下し給いて、傷者の治療の用に供せしめ玉う。此に於て、病院長たりし忠悳は、さらに宮内卿により復奏して曰く、大阪臨時病院並に、戦地病院には、官賊の傷者共に在り。恩賜の撒絲は、官軍の傷者而已に賜るべきや、将賊の傷者にも賜るやと、宮内卿は台旨を奉じ更に伝えて曰く、已に傷きて病院にあるものは、国より官賊の別なく之を賜はるの台旨なりと。此に於てや、大阪臨時病院の傷者は勿論、各軍団病院にまで配分し、各傷者に分ちたり。』

つまり、戦地の官軍病院には官賊の傷者が共にいて、皇室自ら官賊の別なく治療することを奨励されていたことになる。さらに常民が書いた設立願書には「この輩のごとき大義を誤り、王師に敵すといえども、また皇国の人民たり。皇家の赤子たり」と記され、敵味方の区別なく救う、という赤十字の精神が天皇精神に通じることが説明されている。幻灯機のナレーションが本当なら、博愛社設立が「敵味方の区別なく救護することが理解されなかった」どころか、3月には既に両軍とも治療し、皇室も救いの手を差し伸べていたことになる。

博愛社設立後明治天皇は特旨をもって博愛社に金1,000円を賜っている。やがて博愛社は日本赤十字社と改称され、ヨーロッパの王室にならって、皇室が赤十字運動の指導的立場に立たれた。現在の日本赤十字の名誉総裁は皇后さまで、日赤大会は明治神宮の杜で開かている。明治天皇の皇后・昭憲皇太后の寄付金をもとに創設された昭憲皇太后基金は、100年近くたった今でも、世界の赤十字活動を支えている。

(支部 梶山哲男)

 

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