話は西南戦争に戻ることにする。西南戦争は、明治10年2月15日西郷隆盛の挙兵から始まり、2月19日熊本城炎上、2月22日熊本城総攻撃、2月27日高瀬大会戦、3月4日から20日までの田原坂の戦、3月21日植木・木留の戦、4月20日健軍・保田窪の戦、4月21日大津攻撃、5月1日から5月下旬までの人吉の戦へと続き、薩軍は都城、宮崎、延岡へと敗走し、九州山脈を経て、9月24日城山で終焉を迎えた。
兵力は、最大で官軍約60,000人、薩軍約31,000人。戦死者は、官軍約6,900人、薩軍約7,100人と言われている。戦死者のうち80%は熊本県で、50%は熊本城以北で、植木地区では37%が戦死している。戦傷者は戦死者の3倍から5倍にのぼると言われているが、二俣、正念寺、高瀬、久留米、大阪へと治療を続けながら搬送された。高瀬の軍団病院には3月20日154名、3月21日180名入院の記録があり、多い時で高瀬に2,000人、久留米には3,200人、大阪には8,000人が収容されたと言われている。つまり大半が熊本での戦闘であり、現地救護の観点から考えても熊本が一番大変だったのである。
負傷者の治療には、両軍とも常設や臨時の病院、大包帯所、小包帯所が設置され、軍団病院では高度な手術も行われていた。官軍は城北を中心に80ヶ所、薩軍は川尻の延寿寺を拠点として118ヶ所の病院等があり、病院には番号が付与されていた。それでも傷病者は溢れ、戦場と共に軍隊が移動していった後には、傷病兵だけが取り残されたことが予想される。
当初、博愛社の設立は篤志者を募って公平で中立的な救護団体を結成し戦地で救護しようとするもので、皇室や政府にその趣旨は理解されたが、西南戦争の激戦の真っただ中なかなか許可されなかった。しかし、元老院議官佐野常民は戦況がある程度落ち着いてきた5月1日、本営が置かれた熊本城内ジェーンズ邸に滞在の征討総督有栖川宮熾仁親王に請願書と社則を添えて直訴し、5月3日ついに允許を得ることができた。1日でも早く傷ついた兵士たちを救うため奮闘していた佐野常民は号泣したと云われている。負傷者はまだまだ熊本にあふれていたのである。
公に救護団体としての活動が認められた博愛社は、晴れて熊本の地で、海陸軍医長や熊本県権令等と協議しながら、全国から有志者や寄付金を募り、医者や看護人を雇い、治療材料等を購入し、博愛社の標章を定め、戦地で組織的な救護活動を開始した。記録では、西南戦争における博愛社の救護活動は明治10年5月27日から10月31日まで、救護した患者1,429人、従事した救護員199人、救護費総額7,040円となっている。
(支部 梶山哲男)