日赤発祥の地・熊本 〜連載企画〜

連載13 敵味方の区別なく救護した明治の偉人達(Ⅳ)~鳩野宗巴(はとのそうは)~

鳩野宗巴これまでは、戊辰戦争時に敵見方の区別なく救護した明治の偉人達を紹介したが、今回は西南戦争時の熊本の医聖鳩野宗巴(八世)を紹介する。宗巴は、1844年(天保15年、弘化元年)に熊本城下に生まれ、細川藩御典医として熊本城下で医術を業としていた。1868年(明治元年)戊辰戦争の時、細川藩は鳩野宗巴を明治政府が横浜に設けた軍陣病院に派遣した。ここで注目すべきことは、この病院の院長は英国の軍医ウイリアム・ウイりスで、前に紹介したとおり明治政府に敵兵も差別無く治療することを働きかけたあのウイリスである。英医シドールから指導を受けたとしているが、当然、ここで敵兵も区別なく治療することを学んだはずだ。

その後、明治十年西南戦争の時は、妙体寺町に医院活人堂、病室養生軒、医学塾亦楽舎を構えて有名であったが、2月19日の熊本城天守閣の炎上の時に鳩野家も全焼。宗巴は明治維新の折の廃仏毀釈騒ぎで廃庵になっていた拜聖庵跡に避難していたが、2月23日薩摩軍熊本隊隊長の池辺吉十郎から薩摩軍の治療を強要され、敵味方の区別無く治療することを条件に治療を引き受け、藩医の河喜多宗磧、黄玄風、原田早春、村上又五郎、松岡独醒庵、狩野庄馬、村井同吉らと8名で早速治療を開始した。戦傷者の増加で病室が手狭になると近くの梅木小学校、亀井の光照寺、民家41戸を借り上げて、同所には桑島見龍、松田喜福、池邊健寿、林強の4医師を置いて治療した。4月15日、薩摩軍が御船、矢部と転戦すると、熊本隊、協同隊、龍口隊も人吉、鹿児島、宮崎の各地で戦ったが、松岡独醒庵、狩野庄馬、村井同吉は陣中医として同行し、8月17日延岡の長井村で党薩諸隊の全軍解隊として降るまで、傷病兵の治療看護を続けた。

宗巴は、戦後罪に問われ、征討軍本部から利敵行為の疑いで裁判を受けることになった。裁判の結果、「其方儀賊徒ノ為メ治療ヲナスト雖モ賊ニ与スル意ナキヲ以テ其ノ罪ヲ問ワズ明治十年八月十一日 九州臨時裁判所」とされた。この文書は鳩野家に保存されている。また室園町の真言宗の寺「拜聖院」には「日本の赤十字活動発祥の地」と書かれた木碑があり、境内には「細川藩医師団の赤十字活動について」という説明板が建っている。宗巴は、熊本における博愛人道の先駆者である。

その後明治25年4月1日には、塘林虎五郎によって大江学園の前進である熊本貧児寮が設立されると、宗巴は進んで施設医となり、大坪氏とともに20年にわたって報酬を受けずに協力している。また、父の遺業であった家塾「亦楽舎」も、明治14年の医療制度改革によって私塾が廃止されるまで継続し、医師養成にも力を尽くした。「亦楽舎」は天保10年3月20日に創立されてから明治14年4月19日に廃止されるまでの43年の間に、総数156名の医生が学んだ。明治に流行した数え歌のなかで、「五つとや、五つ 医師殿は鳩野さんが名所」と唄われていることや、明治25年4月21日に九州日日新聞が募った「十二大家族」に慈善家として鳩野宗巴が挙げられていることなど、当時の宗巴の名声が伺い知ることが出きる。宗巴は1915年、熊本市長より慈善家として表彰を受け、1917年(大正6年)3月8日に74歳で没した。

(支部 梶山哲男)

 

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