日赤発祥の地・熊本 〜連載企画〜

連載11 敵味方の区別なく救護した明治の偉人達(Ⅱ)~関 寛斎(せき かんさい)~

関寛斎

前回紹介したウイリアムウイリスと共に敵兵も治療した関寛斎という人物がいる。関寛斎は、1830年(文政13年)、今の 千葉県東金市東中 の農家吉井佐兵衛の長男として生まれ、儒家関俊輔の養子となり、18歳で佐倉順天堂に学び佐藤泰然の門下で蘭医学を学んだ。

26歳の時銚子で開業するが、豪商濱口梧陵の支援で長崎に遊学し、オランダ人医師ポンペに最新の医学を学び、「患者に身分の上下なし」という精神を叩き込まれた。ポンペはユトレヒト大学で医学を学んだオランダ人医師で、1857(安政4)年に来日し、口の悪い勝海舟から「ありゃ名医だよ」と誉めたぐらい人格・見識の優れた人物だった。

その後、寛斎は徳島藩のご典医となり、医者でもある村田蔵六の推薦する「仁術医者」でもあった。戊辰戦争では官軍の奥羽出張病院頭取として、野戦病院で傷病兵の治療にあたった。

また、財政的にも厳しい病院経営に腐心した。戦場の最前線で「奥羽出張病院」と書かれた旗をひるがえした野戦病院は、薩摩軍従軍医師ウイリアム・ウィリス(28歳)の協力のもと、敵味方の区別なく戦傷者を治療し、後に日本初の「赤十字的」病院と言われるようになった。

戦地から徳島に戻った寛斎は、一時は藩立医学校の教授に就任したが、徳島に診療所を構え、以後約30年間町医者に徹した。ここでは、貧しい人からは治療費を受け取らない診療を行い、住民たちからは「関大明神」とあがめられていた。

しかし寛斉は年齢70歳にして一念発起し、突然産業発展のために必要な地と注目された北海道の開拓を志した。石狩樽川農場を開拓し、1902年(明治35年)72歳でさらに奥地の原野だった北海道陸別町の開拓事業に全財産を投入し、広大な関牧場を拓いた。開拓の方針を二宮尊親が経営する二宮農場の自作農育成に求めて「積善社」を結成し、徳富蘆花との交遊を深め、トルストイの思想に共鳴し、理想的農村建設を目指した。

徳富蘆花は、横井小楠門下の俊英であった父・徳富一敬の次男として肥後国に生まれ、熊本バンドの1人として同志社英学校に学びキリスト教の影響を受け、トルストイに傾倒した人物である。思想家・ジャーナリストの徳富蘇峰(猪一郎)は実兄であり、後年、夫人とともに外遊の際、トルストイの住む村を訪れ、トルストイと会見している。その後寛斎は、トルストイよりも過激であったのか、それとも土地を開放し、自作農創設を志すが果たせなかったことに絶望したのか、子の餘作、又一に志を託し、82歳にして服毒により自らの命を絶ち、波瀾万丈の人生を終えた。

(支部 梶山哲男)

 

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