日赤発祥の地・熊本 〜連載企画〜

連載10 敵味方の区別なく救護した明治の偉人達(Ⅰ) ~ウイリアム・ウイリス~

ウィリアムウィリス
場面を戻し、今回からは日本国内で敵味方の区別なく治療にあった医師達を紹介する。一番に紹介したいのは戊辰戦争時に明治政府に敵兵も差別無く治療することを働きかけたウイリアム・ウイリスである。

ウィリスは1837年にアイルランドで生まれ、スコットランドのグラスゴーで医学を学んだ。1861年、江戸のイギリス駐日公使館での仕事に志願し、ハリー・パークスの下で医官として働いた。幕末から明治維新への時代の中、生麦事件や薩英戦争のイギリス人負傷者の治療にあたった。1868年(慶応4年)1月、鳥羽・伏見の戦いでは薩摩藩の治療を指揮し前線近くの相国寺に野戦病院を置いた。その後も横浜の軍陣病院や東北各地の野戦病院などで戦傷者の治療にあたった。

ウイリスは薩摩藩医達を指導しながら、外科処置に没頭し、その手術手技は薩摩藩医達を魅了した。薩長軍を主体とする新政府軍は、江戸、東北・越後へと進軍したが、ウイリスは新政府軍に了解を得て薩摩藩の負傷者に限らず、他藩の負傷者、幕府脱走兵、会津藩の兵士たちも差別なく治療した。越後戦線におけるウイリスの手記によると、「私自身は600名の治療に当たり、他の1,000名の負傷者の処置法については、前線病院の医師達を指導した。負傷者中900名は政府軍の将兵、700名は会津藩兵たちであった。指から上、下肢の切断手術を38回もやった」と記している。

このときウイリスが敵兵も治療すべきと最初に相談したのが奥羽征討総督として官軍の指揮を執った小松宮彰仁親王殿下(当時東伏見宮嘉彰親王殿下)で、後の博愛社初代総長であり、新政府の大総督宮は、熊本で博愛社の設立を許可した征討総督有栖川宮熾仁親王であったことは見逃せない。

また、博愛社設立時にその可否について岩倉具視から意見を聞かれた西郷隆盛の弟である西郷従道は、鳥羽・伏見の戦では頚部に貫通銃創の重傷を負ったが、ウィリス医師が治療に当たり見事に快癒している。従道は当然ウイリスが敵味方両軍を治療していたことを知っていたはずである。戊辰戦争後ウィリスは東京医学校の教授に任命されたが、明治政府のドイツ医学採用に伴い1870年に辞職、その後、西郷隆盛らは官軍時代からの恩に報いるため、高給で鹿児島医学校兼病院(鹿児島大学医学部の前身)へ迎え入れた。西南戦争には反対しながらも自分の教え子である医師を軍医として送りだしている。

余談であるが、鹿児島でウィリスの下で学んだ中に東京慈恵会医科大学の創設者であり、脚気の撲滅に尽力し「ビタミンの父」とも呼ばれる高木兼寛がいた。彼は西南戦争のときにはウィリスの指導でイギリスに留学していた。高木兼寛は、海軍軍医総監となった当時、国民病として蔓延していた脚気の原因説を巡って陸軍軍医部を代表する森林太郎(鴎外)と宿命的な対決をした。海軍では主食を麦飯とパンに全面的に切り替えたのに対し、陸軍と東大医学部の学者は栄養量において白米の方が優れているとして白米の支給に固執した。この結果、日露戦争では陸軍の総兵員中22万1千人が脚気に冒されて、2万8千人が死亡、脚気による病死者の数は戦死者数を優に上回った。一方、海軍では病死者はほとんど出なかったのである。伝染病研究主体のドイツ医学に対し、臨床重視のイギリスの医療に軍配が上がった形となった。

(支部 梶山哲男)

 

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