佐野常民がパリ博で始めて赤十字と出会った1867年(慶応3年)ごろ、実際欧米はどのような社会であったのであろうか。フランスでは1842年フランス幹線鉄道建設法制定され、これ以降、政府の後押しを得て、鉄道建設の動きが加速していた。この法律で定めた計画路線は、パリを中心とした放射状路線7本と地方間路線2本であり、この鉄道網の大枠は1860年代までに完成している。つまり常民がパリを訪れた時は、既にフランス全土に鉄道が張り巡らされていたことになる。日本の交通手段は徒歩か馬、もしくは駕籠か人力車といったところである。欧米に比べ日本は相当遅れていたのである。
そもそも日本人が文明の違いに驚かされたのは、NHKの龍馬伝にも出てくるが1853年浦賀沖に来航したマシュー・ペリー率いる黒船が最初である。この黒船はアメリカ合衆国海軍所属の東インド艦隊艦船であった。このころ、すでに産業革命を迎えた西ヨーロッパ各国は、大量生産された工業品の輸出拡大の必要性から、インドを中心に東南アジアと中国大陸の清への市場拡大を急いでいた。それは熾烈な植民地獲得競争となり、競争にはイギリス優勢のもとフランスなどが先んじており、インドや東南アジアに拠点を持たないアメリカ合衆国は、西欧との競争のため、清を目指すうえで太平洋航路の確立が必要であったため日本を訪れたのである。現在の日本とアメリカの関係に似たところがある。
ナイチンゲールのいるイギリスはどうだったかというと、世界に先駆けて既に産業革命を達成し、福祉国家を目指していたが、労働者が都市部に集まり、公害や貧富の差に悩んでいた。19世紀始めのナポレオン戦争後は七つの海の覇権を握って世界中を侵略し、カナダからオーストラリア、インドや香港に広がる広大な植民地を経営し、奴隷貿易が代表するような搾取を繰り広げイギリス帝国を建設していた。ちなみに蒸気機関車は1804年に発明され、1830年代後半になると鉄道網の整備が進み始め、1850年までには9600キロの鉄道が開通していた。労働者も鉄道で家族旅行が楽しめるようになり、パリ博覧のころには地下鉄も登場していた。イギリスを皮切りにベルギー、フランス、アメリカ、ドイツ、日本といった風に順次各国でも産業革命が起こったとされているが、日本は相当遅れており、明治維新がなければ、危なく植民地にされるところだったのだ。(支部 梶山哲男)